僕が短歌を詠む理由
国内であれ国外であれ、『遺跡』というものが僕は大好きだ。
追求すればほぼ全ての場所に言えることだとは思うが、『遺跡』という場所は、そこに確実に人の暮らしがあったことを示している。
今となっては分かるはずもない、ある種共通の想いに共感した命が集まって、過ごしていたことを示している。
そんな場所に身を置き目を瞑ると、うまく言えないが、時間が少しあやふやになっているような気持ちになる。
その『あやふや感』が、僕はこの上なく心地良いと思う。
そういった意味で、どこへ行く必要もなく、自分の意志でその『あやふや感』に陥るために、僕は言葉を綴って詩を詠む。
遺跡のような『場所』とは違うが、かつてこの国の民が行っていたことを、現代で行うことが出来る。
文明が常に進化し、新しいものが生み出され、かつての物が様々な形に姿を変えていくなかで、この『短歌』というものは、ほぼ同じ行為をすることが出来る。
そんな、五・七・五・七・七の31文字を紡いで繋げている瞬間は、誰かのナニカと僕のナニカとの間にある何かが、時間をほんの少しあやふやにする。
こんな風に思うのは、僕が『デザイン』という答えのないものに携わり、それを届けるための言葉を探し続けてきたせいかもしれないな。
なんて思う、春の出口付近。
空は知る
時を泳いで
揺らめいた
隣に佇む
友の春風を
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